増田明美(ますだ・あけみ)
- 1964年、千葉県生まれ。 私立成田高校在学中、長距離種目で 次々に日本記録を樹立する。
- 1982年にマラソンで日本最高新記録を作り、 1984年のロス五輪ではメダルを期待されたが、 無念の途中棄権。
- 1992年に引退するまでの13年間に残した記録は 日本最高記録12回、世界最高記録2回更新。
- 現在はスポーツジャーナリストとして 執筆活動・マラソン中継の解説に携わるほか、 ナレーションなどでも活動中。
■経歴(幼少期~現役選手時代)
1964年1月
元旦、千葉県夷隅郡岬町(九十九里浜の最南端の太東岬)の農家に生まれる。
弟は京都大学・同大学院卒業で研究者。
1979年4月
私立成田高校に入学。”女瀬古”の呼び名もついた高校3年生のときは、トラックで3千、5千、1万メートル、そしてロードでも10、20、30キロ、マラソンと、ほとんどの長距離種目で、次々と日本記録を樹立。
瀧田監督(左)とライバル・樋口葉子さん(右)
1982年2月
地元千葉での初マラソンでは全男子選手を抜き去りながら2時間36分34秒の日本最高、かつ世界ジュニア最高記録で走る。3月の中日20キロマラソンで世界最高記録で走り、瞬く間に”ロス五輪期待の星”となる。
1982年4月
川崎製鉄千葉に入社。5月、1万メートルで日本記録を更新する。
1983年1月
大阪国際女子マラソンでは貧血で倒れ途中棄権となるが、宗兄弟らとの合宿で精神的に成長、体重も増えて、その年のオレゴンTCナイキマラソンで1位、日本記録を更新し復活した。
1984年8月
日本中の期待を集めたロス五輪(女子マラソンでは初めて公式種目)では無念の途中棄権、期待ばかりかけたがる世間の冷たい視線を浴びる。川崎製鉄を退社。
1986年3月
教職を目指し法政大学に入学するが、マラソンを捨てきれず、1年で中退。渡米してNEC米社に入社、オレゴン大学に陸上留学し、明るさと独立心を身につけて帰国する。
1988年1月
五輪以来初レース(4年ぶり)の大阪国際女子マラソンを完走。自己ワースト記録だったが精神的にたくましくなる。4月、NEC本社に勤務。
1982年3月、中日20キロマラソンでのデッドヒート
1989年11月
第11回東京国際女子マラソンで日本人最高の8位につけ、見事再復活を遂げる。
1992年1月
大阪国際女子マラソンを最後に引退、日本記録12回の13年間の現役生活に幕。
自己ベストは1983年TCの2時間30分30秒。
現在の主な活動
■テレビ・ラジオ
- マラソン、駅伝解説
- 世界!ニッポン行きたい人応援団 はじめナレーション多数
■連載
- 読売新聞「人生案内」
- 共同通信「おしゃべり散歩道」
- 産経新聞「思ふことあり」
- 電気新聞「WAVE」
- 朝日小学生新聞「新聞コンクール選評」
■その他
- 大阪芸術大学教養課程教授
- 日本パラ陸上競技連盟会長
- 東京陸上競技協会会長
- 日本ジャンプロープ連合理事長
- 日本フロアホッケー協会理事長
- 日本陸上競技連盟理事
- 日本パラスポーツ協会理事
- 全国高等学校体育連盟理事